ナチュラルボーン多問題!
3歳から貧困・カルト2世・ヤングケアラー、多問題サバイバーの天馬です。
ベルばらと聖書と私な5歳児ができあがったその先は・・・
◆布教活動へドナドナ・・・
その頃の母上と言えば、顎が痛い、手がこわばると難病の症状が出始めておりました。
家に籠っていることが多い天馬にとって、数少ない外出機会が母上の「通院同行」でした。
診断と治療を求めて、あちらの病院、こちらの病院へ。 痛みと不安で切実だったのだと理解はしています。
近医では原因も治療もわからず、インターネットもない時代です。 人に勧められるまま、電車やバスを乗り継ぎあちこち行きました。 未就学児を一人で留守番させることができなかったんだろうとも思います。
が、自分が親になってみると違った見方もあることに気づきました。
病院は病原菌の宝庫。 もちろん子供が具合が悪いのなら、例え火の中水の中奔走するさ。 だけど、自分の通院に幼い子供を一緒に連れていくなんて、ようやらん。 小さい子なんて、すぐに風邪ひくし、こじらして肺炎やら鼻炎やら長引いたりするからね。 だから、他の大人(配偶者や両親など)に預けて受診する方法を考える。 最悪我慢して市販薬で様子をみたりすることも。
でも、わが母上は違った。 父上は昭和の男子だし、両親はすでに他界していたから預ける先がなかったのかもしれない。 でもさ、長時間の検査だったり施術の間じっと待っているって、5歳の子供には結構試練。 じっとしてないと「お家に帰ってムチ打ち」となるから、頑張って静かにはしてるけどね。
始めて訪れた鍼灸院。 おじいちゃん先生が天馬を見て「おまいさん、ちょっと見てあげるよ」と鍼をしてくれた。 週2回夜の集会にドナドナされる5歳児、目の下にクマ2匹で具合悪そうに見えたのかな? と思ったら、風邪を引きかけてたらしく、母上より先にやってくれた。 東洋医学すげえ!じいちゃん名医だね!ありがと~!!!
もう一つの外出機会が「布教活動」でした。
母上は、そんな体調なのに身体が軽い日は布教活動へ繰り出します。 すでに「研究生」から「伝道者」になってたからね、母上。
毎朝「パンの耳」食ってるぐらい貧乏なんだぜ。 そんな元気あるならパートでもしようや、母ちゃん・・・。
週2~3回、平日の午前中の布教活動。 教区内の「今日はここ、明日はあそこ」と集合場所は日々変わり。 おかげさまで、教区内であれば地名と行き方がほとんどわかる子になりました。
まあ、連れまわされるだけの時期だったせいか「お出かけ」と他の2世に会えるのは嬉しかったかな。
しかーし、布教活動自体はとーっても「いや」でした。
エホ証の布教活動は、ちょっと独特。(他は知らんが、後乗せサクサク・・・カップ麺じゃねえし)
皆さまは、一見清楚な親子連れに自宅を突撃されたことはありますか?
そう、エホ証の布教活動は、一軒一軒家を訪ねて「証言」という名のお話をするスタイル。 当時は、ピンポンすればほぼ玄関に出てきてくれました。 子連れなので、最初は警戒されずに笑顔で挨拶してくれる人も多かったです。 もちろんオイラも直立不動、にこやかにご挨拶します。
でも、宗教の勧誘とわかると大体以下の3パターン。
①やんわり断られる ②おもむろにドアを閉められる ③「あなたね、こんな小さい子連れ回していいと思ってるの!」と説教される。
幼い心にも、①は「さもありなん・サモハンキンポー」
しかし、②と③はけっこう堪えました。
さげすみなのか、哀れみなのか、無関心なのか、なんとも言えない眼差し。 乱暴に閉まるドア、鍵をかける音は今でもエホ証時代の原風景です。
不安になったオイラが母上を見上げると・・・。 「サタンに惑わされてるからしかたないの。」 「だから、諦めずに何度も伝えに行くのよっ!」
まあ、あんさんも一度追い返しているからね。 母上、断られるとさらに闘志が沸いておられるようでした。
カルト、おそるべし!
だけど、天は天馬に味方した! 母上の体調に段々悪くなり、布教活動に行く機会が減り始めます。 天馬は、断られたり説教されるのがけっこう辛くなっていたので、これ幸い。 「ベルばらと聖書と私」でいいよ、とサボタージュ。
が、しかーし!日曜日は父・姉が「伝道活動」に行くため、結局オイラはドナドナされる・・・。
※小学生高学年になると天馬も伝道活動を始めるように求められます。 もうね、本当に地獄だった。 だってさー、自分が信じてない、寧ろ脱出したいと思ってるぐらいなのにさっ。 見ず知らずの家に尋ねてくなんて何の罰ゲームだよ!って。
子どもを連れて戸別訪問という布教スタイルが、吉と出るか凶と出るか。
それは神の味噌汁、ではなく「神のみぞ知る」・・・
→保育園編④へ続く